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蘆花恒春園

6月23日(火)
高幡不動尊の紫陽花を堪能して、戻りの京王線に乗ろうと思ったが、まだ12時を少し回ったところだった。高幡不動には1時間半位はいたのだが、見て回るといっても限りがある。京王線沿線で行くところはないかと路線図を見てみると、芦花公園という駅がある。この公園には行ったことがなかった。

芦花公園駅から歩いて15分。住宅街の中に公園はある。周辺は団地やマンションが結構ある。芦花公園は徳富蘆花の暮していた場所を中心に蘆花恒春園として開園したが、その後東京都が周辺の用地買収を進め、恒春園区域を取り囲むように、草地広場、児童公園、花の丘などが開園していて、かなり広い公園になっている。

鬮伜ケ。荳榊虚093_convert_20090624105924 恒春園入口

蘆花恒春園は「不如帰」「自然と人生」「みみずのたはこと」などの作品で知られる文豪、徳富蘆花と愛子夫人が、後半生を過ごした住まいと庭、それに蘆花夫妻の墓地を中心とした旧邸地部分である。

徳富蘆花は明治40年まで、東京の青山高樹町に借家住まいをしていたが、トルストイの影響を受け、土に親しむ生活を送るため、当時まだ雑木林に囲まれ、草深い千歳村粕谷の地(世田谷区粕谷)に土地と家屋を求め、「恒春園」と称し、死ぬまで約20年間、農業を営み晴耕雨読の生活を送った。

鬮伜ケ。荳榊虚095_convert_20090624110528 母屋

蘆花恒春園は武蔵野の面影を残し、蘆花が暮した当時の生活を偲ぶことが出来る。蘆花は国木田独歩と並んで、武蔵野と深い縁がある。国木田独歩はツルゲーネフの影響を受け武蔵野の自然に共鳴した。二人は自然を介して意気投合したのだろう。

二人は当時そこが武蔵野そのものであったことを、ありのままに讃え、愛し、描いて、目に見えるように伝えている。その事によって、100年もの時間を経ていながら、武蔵野とは何かを、感じ、考える原点を提示してくれているようだ。

鬮伜ケ。荳榊虚108_convert_20090624110043 梅花書屋

蘆花記念館の入口には蘆花の次のような言葉が大きく書かれていた。
「余は斯(こ)の雑木林を愛す。木は楢(なら)、櫟(くぬぎ)、榛(はん)、櫨(はじ)など、猶(なお)多かるべし。」蘆花の武蔵野の台地への想いが凝縮されているような言葉だ。

芦花公園の中で恒春園はそこだけが特別の雰囲気を持っている。竹林や雑木林が生い茂り、昼なお暗い。蘆花が住んでいた母屋や書斎として使っていた秋水書院や梅花書屋の茅葺の屋根の明治時代の木造住宅が雑木林の中で見事に調和し、過去に引き戻されるような場を作り上げている。

鬮伜ケ。荳榊虚104_convert_20090624110134 花の丘の花壇

恒春園の暗い世界から抜け出て、芦花公園全体を回ってみる。児童公園、多目的広場、ドッグラン、アスレティック広場、草地広場などは普通の公園と同じだ。花の丘の花壇には丁度花がきれいに咲き揃っていた。白い紫陽花が花壇を取り囲んでいる。花の丘の明るさは、恒春園の暗さと対をなしているようだ。公園から、環8通りに出て八幡山駅まで歩いて15分位だった。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

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