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『人生の日曜日』 レーモン・クノー

11月25日(日)
 「日曜日、時間とは何か、それを一番感じさせる曜日だ。普段は押し流されながら生きている。日曜日には自分が何をしたいか考えなければならない」10月7日のブログにこう書いた。しかし『人生の日曜日』の中の日曜日という表現は、むしろ生き方を考えたり、格闘したりするのではなく、時の流れにたゆたって肩の力を抜き日常性の中に埋没することをむしろ肯定的にとらえている。

現実との矛盾的、敵対的関係ではなく、あたかも秋の日の穏やかな太陽の光を浴びながら、まどろんでいる時のように日常性をありのまま受け入れていくそういった生き方が「日曜日」という言葉で表現されている。

 『人生の日曜日』というレーモン・クノーという小説について考えてみたい。ここにはクノーの人生観が明確に現れている。1932年の処女作『はまむぎ』は手元にあったデカルトの『方法序説』を現代の話し言葉で書いてみたらどうなるかというアイディアに基づいて書かれている。クノーの意図は、現代ではもはや古くなってしまったフランス語ではなく、話し言葉で哲学的な著作を書くことによってその乖離を乗り越えなければならないというものであった。この言語表現が彼の思想を表現する言語である。『人生の日曜日』でクノーは何を表現しようとしたか。

 『人生の日曜日』とロラン・バルトの『零度のエクリチュール』に書かれたクノーの考え方を以下引用してみる。

「人生の日曜日こそが全てのものを平等にし、全て邪悪なものを斥ける。これほど上機嫌になれる人間が心の底から悪人であったり、下劣な人間であったりするはずがない。」
「人生の日曜日は人間が休息している状態、生存のための闘争や競争が一時的に放棄された状態を象徴する。」
「人生の日曜日のもろもろの人物には危機感がまるでない。(庶民の強さ)」

「我と他との不断の敵対意志の中にではなく、両者の区別のつかない薄明状態に人を設定する。クノーの人物は実生活とはあまり関係ない事柄に夢中になる。何処へ行くという目標もなく歩き回ったり、映画館に通ったり、無意味なお喋りをしたり、利益のないのに店を出したりする。これは人生において生きるためにあくせくする週日を無視するやり方だろう。」

 そして登場人物の中の2人に象徴的に2つの生き方を対比させる。
 シドロラン:時の流れに対して静止(動かぬ舟)ニュース、線的、生活は日曜日、無時間的、現実に生活している人間。
 オージェ公:時の航海者、歴史 循環的、伝説、時間の超越、破壊から創造へ、超現実の実在化から現実へ、意識のユートピア
 
 彼はシュールレアリズムの破壊精神に本質的には同調できない自己を発見したのある。「シュールレアリズムは既存の価値の徹底的破壊であった。だがそれは全面的否定ではなく、より深い生の体験への志向に裏付けられていた。幼児期の体験や夢や鋭敏な感受性の組み合わせに人生を豊かにする特権的瞬間を見出そうとしていた。」

こういった流れに対してクノーは『地下鉄のザジ』や『人生の日曜日』の中で、既成の価値への対比として従来の文学的言語表現の「話し言葉」への転換と、思想や概念に裏打ちされた目的意識的生活に、庶民の日常性を対比する。そのことを通して規制の価値観へのアンチ・テーゼを主張し、自己解放の道を探っていく。
 
 彼は『はまむぎ』の章、節の組み立てについて語っている。「私は章の数を偶然に決めることが嫌であったので、7章×13節=91節にした。この91という数字は13の倍数であり(1から13までの自然数の総和であり)さらに1を含む最初の数、即ち存在の死の数字であると同時に生への復帰の数字である」と。これを見ても彼の表現様式は計算されつくした一つの結論なのだ。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

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