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ゴーギャン展

9月16日(水)
上野の美術館は何をやっているのだろうと注意を払うが、東京国立近代美術館はつい探索の対象外になってしまう。TOKYOウオークで近代美術館の前を通り、ゴーギャン展が間もなく終わるということを知った。ゴーギャン展は開始前の宣伝で行きたいと思っていたがすっかり忘れていた。病院の診療が2時前に終わったので行く事にした。

ゴーギャン展の宣伝コピーは次のように書かれていた。
 ゴーギャンは、なぜ熱帯の島タヒチに向かったのか。
 文明と野蛮、聖と俗、生と死、男性と女性、精神と物質、
 これらの両極に引き裂かれながら、
 人間の根源を探究し続けた画家ゴーギャン。
 日本初公開となるタヒチで描かれた大作
 《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》
 を中心に、画家が文明社会に向けて残したメッセージを読み解きます。


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《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》
1897-98年に描かれたこの絵は、画家が目指した芸術の集大成であり、その謎めいたタイトルとともに、後世に残されたゴーギャンの精神的な遺言であり、混迷する現代に向けられたメッセージであるだろう。

ゴーギャンの言葉
私は、死を前にしての全精力を傾け、ひどい悪条件に苦しみながら、情熱をしぼってこれを描いた。そのうえ訂正の必要がないくらいヴィジョンがはっきりしていたので、早描きのあとは消え、絵に生命が漲ったのだ。これには、モデルだの、技術だの、規則だのと言ったものの匂いはない。 このようなものから、私は、いつも自分を解き放ってきた。ただし、時には不安を覚えながらね。「タヒチからの手紙」(岡谷公二 訳)からの抜粋

ゴーギャン自身「これまでに描いたすべてのものよりすぐれているばかりか、今後これよりすぐれているものも、これと同様のものも決して描くことはできまいと信じている。」と述べているように、まぎれもなく彼の最高傑作である。

この絵が展示されている部屋の手前で、この絵の解説の映像が流されていた。ある意味でイコノロジー(図像解釈学)的な検討を行っている。確かに絵は解釈するものでなく、その印象を直感的に受け止めればいいという意見もあるだろうが、その絵の持つ隠された意味を知る事によって絵はさらに厚みと深みを持って我々の前に立ち現れてくるのも事実である。
 
この縦139.1×横374.6cmの大作、横長の画面の上には、人間の生の様々な局面が、一連の物語のように展開する。

我々は何処から来たのか
: 画面右下には眠る幼児と三人の女性がいる。ゴーギャンはよく子供の絵を描いている。人類の起源、人間の誕生への深い思い入れがあったのだろう。

我々は何者なのか
: 中央の女性は禁断の果実を摘み取ろうとするエヴァなのか。エヴァは「善悪を知る知識の木」の実を取って食べ、アダムと共に楽園から追放された。人間の喜びや苦しみはここから始まった。人は生の重荷を背負って生きなければならない。

その右上の紫色の着物の二人の女性は何を話し合っているのだろう。それぞれの思索を語り合い知を求めているのか。それを「驚いた様子で眺めている」不自然なほどに大きく描かれた後姿の人物は何を意味しているか。

我々は何処へ行くのか
: 左下に一人の老婆がうずくまっている。彼女は死を受け容れようとしている、死によって物語を完結する。この老婆の姿は、パリのトロカデロ博物館にあったペルーのミイラを源泉としていると言われている。このうずくまり両手で頬を挟んだ姿はゴーギャンの絵の多くに登場する。死、不安、苦悩を表している。

背後に立つポリネシアの月の神ヒナの偶像は人間の誕生から死までを見つめ、「彼岸を指し示しているように見える」、その前にしゃがむ女性は顔を左に向けながらも視線は逆向きで、「偶像の言葉に耳を貸しているよう」である。像の右に立つ女性は死んだゴーギャンの娘を描いたと言われている。

老婆の足元のトカゲをつかんだ白い鳥は「言葉の不毛さを表している」。また中央の女性の左には猫と子供と山羊、右端に半分だけ描かれた犬がいる。これらがどのような寓意をもっているのだろうか。忠誠や信仰を表すために犬が描かれる事がしばしばあるという。さらに水浴する女も描き込まれている。これらが全てが相互に影響しあいながら一つの大きな流れに収斂していく。

この一連の絵の流れの中で、自ずと人間の生と死、文明と野蛮といった根源的な主題に辿り着く。この一枚絵は、ゴーギャンの絵画の根底的課題である人間存在に関する深い感情や思索を凝縮した形で造形的に表現している。(参考: ゴーギャン展・公式ホームページ)

以前浄土真宗の坊さんの講話を聞いたことがある。「生老病死」という人間は4つの苦しみを抱えている。この苦しみから逃れるには、ひたすら念仏を唱える他ないというものだ。念仏はさておき、生老病死という生まれたことその時から苦しみが始まる。ゴーギャンの絵を見てそれを感じる。

南仏アルルでゴッホと一緒に生活していた時二人が描いたブドウ畑の絵があるが、ゴッホはブドウの収穫の喜びを表すように鮮やかな色彩で取り入れの風景を描いている。ゴーギャンは、ブドウ畑で収穫をしている風景の前に、うずくまり両手で頬を挟んだ暗い顔をした女性を描いている。どのような華やかな風景や収穫という心弾む中にあっても、人の心の中の根源的苦悩は消すことが出来ないということを描いているようだ。

この根源的な苦悩を彼は、タヒチの原始と野性、原初の人類に備わる生命力や性の神秘の中で、自らの野蛮人としての感性を重ね合わせ、昇華しようとしていたのかもしれない。

そして最後に行き着いたのは《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》に描かれた世界だった。それは誕生から死まで、苦悩と迷いの中に生きる人間の総体を受け止め、そのありのまま姿を肯定することではなかったのか。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

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がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
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