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黒澤明監督 『生きる』

11月15日(日)
TSUTAYAで旧作を期間限定で半額で貸し出すというキャンペーンをやっていた。今話題の『ゼロの焦点』が最初に映画化された野村芳太郎監督の映画を見てみようと思った。また黒澤明の見ていない何本かを借りた。『生きる』『天国と地獄』『赤ひげ』などだ。

『生きる』は学生時代に見た事があるような気もするが、自分ががんに罹り、余命を宣告された今見ると全く違った映画に見えてくる。強い感情移入が起こり、感動を呼び起こす。主人公は自分の死期を悟った時、初めて“生きる”とは何かを掴んでいく。“生きる”とはどういうことなのか。どう“生きる”か、家族の為に、誰かの為に、あるいは自分の為に、何をなすべきか、残された時間をどう生きるか難しい問題だ。

生きる_convert_20100507220441 物語の進行の一こま一こまが死に直面した主人公渡辺の動揺と迷いを表現している。渡辺勘治(志村喬)は市役所の市民課長を務める53歳の男だ。役所では書類の山に囲まれ、判子を押すだけの毎日を繰り返している。時々時計を見る。役所では時間を潰しているに過ぎない。

仕事が終ると家に真っ直ぐ帰る。仕事帰りに同僚と付き合ったり飲みに行ったり遊びにいったりもしない。何の変化のなく波風も立たない生活を何十年も続けている。まだ子供が小さいうちに連れ合いに死なれ、自分のやりたい事も我慢して、子供のためだけに仕事を続けている。30年間無遅刻、無欠勤で。それは毎日息をしているだけで「生きている」といえるものではなかっただろう。

最近、胃の調子が悪く、薬を飲んでいる。医者にレントゲン写真の結果を聞きに行く。医者が「胃潰瘍ですな、少し症状が進んでいますが。普通に生活しても大丈夫です」と言うと、自分の病状が分る彼は「胃がんだとはっきり言って下さい」と叫ぶ。もはや余命が半年もないと悟った彼は、貯金を降ろし夜の街にさ迷い出る。役所には無断欠勤する。市役所の職員は課長の欠勤が信じられない。

1人で居酒屋で酒を飲んでいるとそこで小説家にあう。小説家は渡辺の死期が近いことを知らされる。一人で感動し、余命幾ばくも無いこの男の最後の快楽を味合わせようとメフィストフェレスを気取って歓楽街の案内役をかって出るのだった。

パチンコ屋、キャバレー、バー、ダンスホール、ストリップ劇場と練り歩く。キャバレーのピアニストが客に曲をリクエストした。渡辺はゴンドラの唄を頼む。ピアノが始まり、何人かの男女がフロワーで踊始めるが、彼が低い声で歌い始めるとその切々とした身を裂くような歌声に踊りをやめ、あたりは静まりかえり、彼の歌がだけがホールに流れる。しかしこういった歓楽の世界は彼の心の空隙を埋めることは出来るはずもなく、どのような平安もたらさなかった。

朝帰りの渡辺が憔悴して帰宅しようと歩いている所で、区役所の若い女子職員の小田切とよ(小田切みき)に出合った。彼女は区役所の仕事の事なかれ主義に嫌気が差し退職した。退職願には課長の判が必要だというのだ。家に連れ帰り、用紙に判を押してやる。渡辺はとよの靴下に穴があいているのを見て、再び二人で出かける。息子夫婦はそんな様子を見て、父親が女遊びをしているのだと勘違いするのである。

靴下を買った後、渡辺はとよと、パチンコ屋、スケートリンク、遊園地で時を過ごす。喫茶店での話しの中でとよは自分が付けた職場の人のあだ名を言う。「課長さんにも付けてあるのよ」「ほう・・・?」「・・・ミ・イ・ラ」渡辺は納得せざるを得ない。自分は長い間、生ける屍だったのだから。人からもそう見られていたのか。

渡辺は、とよの屈託の無い若さにすっかり魅了されるのだった。渡辺はとよの新たな職場へも押しかけた。迷惑そうな顔でとよは、「今度だけよ」と言いながら付き合った。お茶を飲みながら、「何故、わたしのところへ来るのよ」ととよは言った。渡辺は、自分が胃がんの末期であることを話し、自分はどうしていいか分らないと苦痛に満ちた声で言う。どのように残された時間を生きていったらいいのかその答が見付からないことで苦しみもだえる胸の内をさらす。

とよはウサギの人形を出した。テーブルの上をカタカタと動き回る。「今、こんなものを作っているの。結構楽しいのよ。日本中の子供と仲良くなったような気がするわ。・・・課長さんも何か、作ってみたら?」

渡辺はじっと人形を見つめている。そして何かに取り憑かれたような表情になった。自分の余命を知り、苦しみ迷いながらその煩悶をとおし、彼は「生きる」ということはどういったことかをやっと見出すことが出来た。

渡辺は何日ぶりかで出勤した。そして、すぐさま先日主婦達が陳情に来た汚水溜めのある土地の視察に出かけたのだ。陳情は近所に汚水溜めがあるため子供が病気になる、何とかできないものか、例えば公園を作るとか・・・というものだ。かって陳情に来た時には渡辺は顔も上げずに「土木課」へ回せと言っただけだった。

その時は、彼女たちの訴えは、土木課から始まって、公園課、水道課、衛生課、予防課、防疫課、下水課、道路課、都市計画部、区画整理課と、あちこちにたらい回しにされ、結局どこも真剣に取り合おうとせず、主婦たちは憤慨して帰っていったのだ。それから5ケ月彼は全身全霊で公園建設のためを捧げる。

 公園が完成したある日、彼は雪の降る公園のブランコに乗り、1人満足そうに「ゴンドラ唄」を口ずさんでいた、そしてその公園で息絶えていた。家の玄関には息子宛に預金通帳と退職金受け取りの書類が置いてあった。

   「ゴンドラの唄」
  いのち短し 恋せよ乙女 紅き唇 あせぬ間に 
  熱き血潮の冷えぬ間に 明日の月日はないものを 

  いのち短し 恋せよ乙女 いざ手をとりて かの舟に
  いざ燃ゆる頬を君が頬に ここは誰も 来ぬものを
  
  いのち短し 恋せよ乙女 黒髪の色 あせぬ間に
  心のほのお 消えぬ間に 今日はふたたび来ぬものを


この唄がこの映画に何故かぴったりと合う。全体的内容は「生きる」ということと関係なさそうに見えるが、「命短し」「明日の月日はないものを」「今日はふたたび来ぬものを」この言葉は余命宣告を受け止めた者にとって切実な言葉だ。しかし死は全ての人に訪れる。全ての人は限られた命を生きているに過ぎない。残された時間は誰にも分らない。死を考えるとき「生きる」ということ、そして今をいかに生きていったらいいのかと考えざるを得ない。

この映画が問いかけているものは「人間いかに生きるか」ということだろう。黒澤監督はこの映画の趣旨を「あの映画で僕が自分に問いかけたのは「どうしたら心安らかに死ぬことが出来るか」だった。答えは「いつもベストを尽くして生きていく」ということだった。死を思うことは生を問うことなのだ。」と言っている。限られた人生に無駄な時間はない。ベストを尽くすことが心安らかに死ぬために必要なのだろう。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

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がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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