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組合活動から管理職へ

12月10日(木)
『沈まぬ太陽』を見て自分の人生を嫌が応でも振り替えざるを得なかった。管理職になった時には、会社の組合潰しの意図をそれ程はっきり認識しきれず、そういった攻撃に屈服したという自覚はなかった。しかしその後組合がまたたくまに潰されていった時に、嫌でも会社の意図を知るはめになった。

元勤めていた会社はマネキン・ディスプレイ業界で、仕事は内装、ディスプレイ什器の売却、リースを行っていた。そのためのデザイン室や、什器の製作修理を扱う工場、什器の運搬のための流通センターなどがあった。

1987年8月同じ身分で同じ業務内容に携わっていた5人と共に正社員になった。それまでは契約社員的、請負的な勤務形態で展示会やイベントの設営を主に仕事としていた。契約社員といっても年金、健康保険、失業保険は社員並みに保障されていた。こういった身分の方が気楽だったが、その頃会社が経営危機に陥り、いざとなった時社員の方が発言権があるだろうということで社員になったようなものだ。会社は親会社のてこ入れで持ち直した。

社員になってすぐに組合の役員になった。組合はユニオンショップ(新規に雇用された労働者は一定期間内に労働組合に加入するこが義務づけられる)で、またチェックオフ(使用者が組合員である労働者の賃金から組合費を天引きし、一括して労働組合に渡す制度)の体制もあり非常にやり易かった。こういった体制を足場にして今までの組合とは全く違う労働者の権利を正当に主張していくものとして作り変えていった。

94年には全国一般北部地域支部に加盟した。社長はかなりこれに対して怒り、上部団体との団交をあくまでも拒否した。春闘の時期には全国7ケ所の営業所の組合員を集め本社で総会を行った。社員の4分の1位が集まった。地方営業所からは代表が参加した。全国一般北部支部の委員長や書記長を招いて講演を行ってもらった事もある。また各地の営業所に出向き春闘の経過報告なども行った。ほぼ10年間組合を担ってきた。

97年、組合の役員であった私を社長は課長になるよう説得した。「年齢的にも現在の業務内容から行っても課長がふさわしい」という訳だ。この時は組合の委員長も書記長も若い人が担っていた。私も50歳になろうとしており組合は若い人が積極的にやってくれた方がいいだろうと思った。私がいる限り頼り切って自立できないので身を引いた方かいいかもしれないと思った。しかし一方で私が管理職になり組合を担えなくなれば、組合が弱体化するだろうとは思ったが、まさか潰されるとは思いもしなかった。

もし社長の要請を拒否していたら、地方営業への転勤を命ぜられるか、降格・配転・出向などの処置を取るだろう。そういった攻撃を恐れていたわけではないが、そろそろ組合からの引き際だろうと思ったのは確かだ。

結局、私はその管理職になれといった社長の要請に応じた。このことは自分の中では止むを得ないことして受け止めたが、従業員全員に対する裏切りであるのは確かだった。予想以上にすばやく組合潰しが始まった。半年位のうちに社長の工作で組合はまず全国一般から脱退し、その後チェックオフで集まった組合費を分けて解散してしまった。こんなにまで露骨にスピーディに事が行われるとは予想もしていなかった。

私を管理職にした意図がこれでもかといった形で突きつけられた思いだった。たった一人の人間を切り崩すだけで、長年積み重ねてきた組合の体制があっという間に崩壊してしまった。今まで10年近くどのように組織を打ち固めてきたのだろう、どのように後進を育ててきたのだろうといった反省が強く胸に刻み付けられた。

その後、労働条件は全て社長の一存で決められていった。リストラを始め、残業代カット、就業時間延長等考えられない労働条件の悪化が何の抵抗勢力もないまま行われていった。これは大きな後悔として私の心の中に残り続けた。結局意識せずとも自己保身のため課長になったのではないかといった敗北感が強く心を打ちのめした。

『沈まぬ太陽』をみて主人公・恩地の姿勢に自分のやってきたことを映し出さざるを得なかった。彼は徹底的な報復人事に迷い迷いながらも、本社に帰りたければ、組合から脱退し、謝罪せよといった会社の恫喝に屈服することなく、10年間最初の2年間は家族も一緒だったがその後は単身赴任で海外勤務を強いられた。本社に戻ってからも閑職に追いやられ、御巣鷹山墜落事故の遺族の窓口といった困難な誰もやりたくない仕事に回されたが、彼は誠心誠意その仕事に取り組んだ。

何が彼をそうさせたか。それは一緒に闘った仲間の存在だろうと思う。仲間が賃金格差による低賃金で働かされ、昇格差別を受け、閑職に追いやられ、劣悪な勤務場所に配転させられ、第2組合の上司に徹底的にいじめられるなどの現状を見て、自分だけ転職したり、会社に屈服するわけには行かないと思ったのだろう。

元の組合の役員が常務の命令で不正を働かざるを得ない状況に追い込まれたが、結局最後に仲間と闘った時の思い出の写真を胸に死を決意し、検察庁宛に常務の不正を告発する書類を送った。この行為の持つ意味が恩地の行動をより一層理解させる。組合を、仲間を裏切った自分の選ぶ道は死しかないという、仲間にたする感情が共通のものとして存在していたのだろう。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

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