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日光街道沿いの寺院

1月22日(金)
瑞光小学校の「いのちの授業」が終って、夜18時からの「ももバー」までの時間がかなりある。日光街道沿いの寺院を訪ね、投込寺として知られている浄閑寺を経て、土手通りを浅草方面に向かい吉原大門を見て、山谷掘公園を歩き今戸橋まで行く。今戸橋ふもとの待乳山聖天までのコースを考えた。丁度2時間位だろう。

日光街道最初の宿場街・千住は、北への玄関口であった。千住大橋を境に、北側を「大千住」「千住北組」、南側を「小千住」「千住南組」と呼んでいた。「東海道品川宿」「中山道板橋宿」「甲州街道内藤新宿」と並んで、江戸四宿の1つに数えられた千住宿は、宿泊所、商店、材木屋、飯盛旅籠など多くの施設が立ち並ぶ繁華街であった。時代小説では必ずといっていいほど登場する聞きなれた場所だ。

瑞光小学校の前の道を商店街まで行かないで、そのまま日光街道に向うと真正寺の横の路地につながっている。日光街道沿いに入口があり狭く気がつきにくいが、境内はかなり広い。そこから真正寺→円通寺→公春院→浄閑寺と巡っていった。

護国観音・真正寺
寛文元年(1661)真正寺が浅草から当地に移転してきた時に、真正寺門前町も同時につくられた。東西20間3尺、南北24間2尺(約1600m2)ほどの土地であるが、荒川区におけるただ一つの門前町である。

山谷堀003_edited_convert_20100123121622 本堂

百観音・円通寺
延暦10年(791)、坂上田村麻呂が開創したと伝える。また、源義家が奥州を鎮定したとき、討ちとった48の首を寺域内に埋めて塚を築いたので、このあたりを小塚原とよぶようになったという。江戸時代、下谷の広徳寺・入谷の鬼子母神とともに、「下谷の三寺」と呼ばれた.

山谷堀015_edited_convert_20100123121910 本堂

山谷堀007_edited_convert_20100123121715 首塚、七重塔

慶応四年(1868)5月15日、上野東臺の戊辰戦争で戦死し放置されていた多数の彰義隊士の遺体を当時の円通寺の住職仏麿和尚と寛永寺御用商人三河屋幸三郎・新門辰五郎が集めて遺骸266体を上野山内にて荼毘に附し円通寺に埋葬した。上野で彰義隊と官軍の激戦が展開され時、その中心地上野山内「袴越し」に建っていた黒門が上野寛永寺から移築されている。

山谷堀010_edited_convert_20100123121840 彰義隊士の墓碑群

山谷堀013_edited_convert_20100123121801 黒門

満海山・公春院
寛文十年(1670)に浄土宗 公春院として創建。浅草聖徳寺の末寺で、本尊は阿弥陀如来。明治の末ごろで周囲が約4m、高さ14m、樹齢は優に500年を越すといわれる松があった。江戸時代、新しく寺院を建てることは禁止されていた。幕府の役人が当時の開創年代を調べにきた際に、松の雄大な様子が新しい寺院ではないことを証明した。以来「証拠の松」とよばれるようになったという。

山谷堀016_edited_convert_20100123121945 本堂

浄閑寺(浄土宗・栄法山清光院)

安政2年(1855)の大地震の際、たくさんの新吉原の遊女が、投げ込み同然に葬られたことから、「投込寺」と呼ばれるようになった。新吉原総霊塔が建立され川柳に「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれた。(つづく)

山谷堀023_edited_convert_20100123122050 山門(荒川区最古の木造建築)

山谷堀021_edited_convert_20100123122433 本堂と永代供養塔

(参考資料:荒川ゆうネット)

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