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老子の思想・2

12月5日(水)
相対を超える無為自然の思想(続き)

180px-Lao_Tzu_-_Project_Gutenberg_eText_15250.jpg 「自らを知る者は明知なり」(33章)というように、天命を知るには自己を凝視することから始まる。自己を知りさらに高いものへの到達が老子の願望である。そこではもはや知すらも超えている状態、現象の奥底を見極める目を持つこと、そしてそれが道への絶対認識なのである。それは外界に頼るのではなく、内なる声に耳を澄ませるということであり外面はその時霧がかかったように漠然としている(56章)。

 結局は人間を含めて万物は、道から生じたものであるから、人は自己に含まれる道なるものを、内面のかすかな光を見極めそれに従うようにしなくてはならない。耳目の欲をふさぎ、万物の根源、道への復帰、全身の没入へと自己の心身をその方向へ導こうと努めなければならない。

 その具体的方法として自己の自然性に帰れということなのであり、無為自然の心境を保ち続けよということになる。道への回帰こそ、人間の最大の欲求なのであり、それは人間の究極の満足となりうるし、それは個人に止まるのではなく万物の掟ともなっているのである。それ故世界の秩序を形成することにもなるのである。
(参考文献 阿部吉雄、山本敏夫著『老子』明治書院 文中の章は『道徳経』から)

『道徳経』第4章 道の性格(道徳経の中から道の性格を表している分を引用してみる)
 
 道冲、而用之或不盈。淵兮似萬物之宗。
 挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵。
 湛兮似或存。
 吾不知誰之子、象帝之先。

 道(タオ)は空(から)の器であり,
 その用は,汲めども尽きない!
 底なしである!
 万物の“泉の頂”に似て,
 その鋭い刃先(へり)は丸められ,
 もつれは解きほぐされ,
 光は和らげられ,
 騒ぎは鎮められる。
 深い淵のようにほの暗く,そこにあるようだ。
 (私は)それが何者の子かは知らないが,
 神の前に存在する“あるもの”のようである。

老子の思想と西洋哲学

 道の性質を無限定と老子は言うが、物の根源を‘to apeiron’ つまり無限定といったギリシャの哲人アナクシマンドロスがいる。物の根源を全く同じ言葉で表現している。プロチノスの流出説も類似点を持っている。つまり神という存在の根拠から水が流れ落ちるごとく、まず理性が生じ、万物が生じてくる。

この考えは『道徳経』8章の「上善(じょうぜん)は水の若(ごと)し。水は善(よ)く万物を利して而(しか)も争わず。衆人の悪(にく)む所に処(お)る。故に道に幾(ちか)し。」に通ずるものがある。

スピノザの「即自然にして物の原因たる神から物と精神との2つの実態が生じ、そこから様々な様態が現れそれが現象となる」この考えは「人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る」(25章)と本質は同じだ。自然としての道から天、地、人が生まれ出ずる。

まさに諸現象の根拠たるものとしての道を表現している。また老子の有と無の思想は物の生成の存在論的根拠たる弁証法を思い出させる。こういった思想的類似点は全く別のところで相互に影響を受けることもなく発生したのである。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

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