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宇宙と人生

4月27日(火)

 人間五十年、化天(下天)のうちをくらぶれば、夢、幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか。

 この言葉を考えてみる時、人間の存在そして自分に与えられた時間や存在が、いかに天上界、現実的に言えば宇宙の無限の空間や時間と比べて、微小なものであるかを否が応でも意識せざるをえない。夜空の星を眺め、限りなく広がる空間を見ていると、それ自体の美しさは感じるものの一方自らの矮小性を悟らされるのである。

確かに人間の一生などは夢、幻のようなもので、色々思い悩んだり苦労したり七転八倒して生きていったとしてもどの道死んでいくのだ。それとてもほんの一瞬の出来事でしかない。

「人間はこの世に生を受けた以上遅かれ早かれ1人の例外のなく死んでいく。悲しいことには違いないが、それが自然の摂理であって決して悲劇ではない。」(カットバッサー俊子)死は非劇ではない。人間に科せられた絶対的現実であり、宿命なのである。

あまりにも当然のように来る死はどういった意味をもつのだろうか。宇宙空間と時間の中に存在する自己とはどのような存在なのか、人類はどのように形成されていったのか。
                                                  銀河系の想像図
180px.jpg宇宙の誕生 
約137億年前-宇宙の誕生→ 約132億年前-銀河系に形成
→ 約50億年前-太陽系の形成→ 約46億年前-地球誕生

人類の出現へ
約5500万年前-アダピス類(初期の霊長類)が出現。
→ 約1300万年前-類人猿の化石が現れる。
→ 約600万~500万年前-猿人の出現。直立二足歩行の開始。
  アウストラロピテクス(猿人)最初の人類とされる。 
→ 約20万-19万年前-ホモ・サピエンス(現在のヒト)の出現。          
                                                  
 平成20年度の男性の平均寿命が79歳、女性が86歳過去最高となっている。しかしたとえ平均寿命まで生きたとしても、宇宙の歴史137億年や人類の歴史20万年から比べれば、一滴の雫にも満たない存在なのだ。

そう思うと空しさを感じるかもしれないが、一方気楽さも感じる。どの道この世に存在するのは夢、幻のようなものである。やがては死んで行く事を免れることは出来ない。それならばむしろ小さな事にくよくよせず、やりたいように人生を生きる事を選択する気持ちになるのではないか。

特にがん患者の場合、その死は突然の生の中断ではない。死と向かい合いながらの生の営みの中で、生の完結を実感できる死なのである。限られた時間をどのようにも選択する事が可能なのだ。確かに人間は「ひとくきの葦」にすぎないかもしれない。しかし「人間は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っている。」(パスカル)死ぬことを自覚する所から人間の存在価値が生じてくる。

死を意識する事によって、新しい生の可能性を見出していく事が出来るのではないか。漫然と日々を送っている生活の中で、死を意識した時、その人の人生は新たな可能性を見出していく事になる。そういった意味で「人は必ず死ぬ」という言葉は単に否定的な言葉ではないはずだ。問題はその事をどう受け止め、どう人生の選択に生かしていけるかだ。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

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No title

私の母は突然亡くなりましたので、自分ではずっと生きているつもりでいるのではないかという気がします。父はガンと闘って逝きましたからそれなりに「死」を意識していたでしょう。でもやっぱり人はずっと生き続けているような感覚を持って死を迎えるのではないかと思います。
その前に義母を送っていますが、そのときに感じたのは、人を含めて地球上のものはすべて地球から生まれて地球に帰るということ。もっと大きく視点を広げれば、地球の存在を含めて宇宙の変遷の中にある、ということです。
私たちの体でとても重要な鉄は、超新星爆発で生まれた、とも聞きました。まさに私たちは宇宙と一体なのではないでしょうか。こう言っても私はなにかの宗教にはまっているわけではありませんので…。

人間は自然の一部

人間は自然の一部である事は紛れもない事実です。しかし科学はその自然を征服しようとして、地球に大きな被害をもたらしました。それは自然に対する人間のおごりから来たものでしょう。そのしっぺ返しが地球温暖化などとなって現れてきています。自然と共栄共存する社会を作っていくことが重要だと思います。
『はっぱのフレディ』という童話の中で、冬になり枯葉となって最後の時を迎えるフレディに友人は言います。「枯葉は土になり木の栄養となって再び葉を茂らすのであって、枯葉として散ったしてもそれが最後ではない。」
自然は循環し、その連鎖が豊かな自然を支えているのでしょう。人間はその連鎖の中の一つの環でしかないのでしょう。土に返っていくことで、その連環の一つを果たしているのかもしれません。

絶対時間・相対時間

絶対時間
確かに、寿命の長いものと比べると人間の一生は短い。ただ、仏教思想は、短い、儚い、空しい、というところに主眼があるのではなく、だからどの様に生きるべきかに主眼があるように思います。
一方、短い方にも目を向けるべきではないでしょうか。マウスは1~2年、蜻蛉や蝉は成虫に成ってから数時間~数日などといわれています。それに比べれば余命半年でも十分に長いともいえます。
相対時間
生物によって時間の感じ方が違うという説があります。もし仮に象と鼠で感じ方が違うと、寿命は大きく異なるが、一生はどちらも同じくらいの時間に感じているのかも知れません。
宇宙という生命体(あるいは精神体?)があるとして、それが感じる100億年が、人間の感じる100年と同じくらいかもしれません。

人の一生が長いのか短いのかはよく分かりません。私の結論としては、結局いつもの話、「長さではなく内容、どれだけ生きるかではなく、どう生きるかが問題なのだ」に行き着いてしまうのです。
そしてそれに気付くきっかけが、yosimineさんの仰るように、死を意識した時だと思います。
「照見五蘊皆空 度一切苦厄」(私は、特に仏教徒と言うわけでもなく、神ながらの道というのもそれなりにいいと思っていますが)

No title

絶対時間、相対時間といった見方には気がつきませんでした。なかなかの洞察に恐れ入りました。

やはり般若心教に行き着きますね。宇宙などを語れば、この世は夢、幻、実体のない物であると考えてしまうのはいわば必然なのかも知れません。「人や物、形あるもの、森羅万象全ては実体なく、空である。」しかし般若心教の「空」は虚無を意味するのではなく、虚空や宇宙の真理のようなものと解釈されているようです。「帰すべき本来の姿」といったもので、一般的考えられているような意味とは違っているようですが、いまだこの「空」の意味は良く分らない点があります。

ただ仏教学者ではないので般若心教を「こだわり無く生きるための智慧」とでも考えて読んでいけばいいと思って自分勝手に解釈して読んでいます。仏教とは無関係な生き方をしていますが般若心教だけは気に入って時々読んでいます。
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Author:yosimine
がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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