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宮部みゆき 『幻色江戸ごよみ』(器量のぞみ)

5月30日(日)
510Y8_convert_20100527181140.jpg 『幻色江戸ごよみ』には12ケ月の季節を辿りながらそれぞれの風物詩をモチーフとし、下町の人情と怪異を折り混ぜながら書かれた12編の短編が収められている。江戸の片隅で、貧しくも精いっぱい生きた人々の喜びと悲しみを、四季折々に辿りながら描いている。

怪異・怨霊なども巧みに取り入れ、人の情を底流としながらミステリータッチで描き、いずれも切なく心暖まる、余情あふれる短編となっている。その中で特に印象に残ったのが第4話の「器量のぞみ」という短編だった。

物語の主人公、お信に縁談が持ち込まれる。大店の跡取りであちこちの娘から人気のある色男繁太郎の嫁にと望まれる。その理由はなんと、娘の顔にその息子
                  が惚れたからだという。どうしても美しいお信を嫁にほしいという。

しかしどう見てもお信は、五尺八寸の大女、しかも力持ちそのうえ、ちっとも美しくない。不器量だと、自分も親も、そしてもちろん近所の人も認めているどうしてこの子を嫁に?と皆が不思議に思っている。そのうえ、縁談の相手先の家族そろってお信は美しいと言う。それは繁太郎の家にかけられた呪いのせいだった。

お信は繁太郎と一緒になり、木屋という下駄屋で幸せな暮らしを続けていた。ある晩、夢の中に幽霊が現れた。幽霊はおくめといい木屋の主人七兵衛に岡惚れしていたが、七兵衛は器量のいいお文を選んだ。

幽霊のおくめは言う「そんなこんなであんまり悔しかったので、祟ってやったのさ。七兵衛さんとお文さんも、二人の間に生まれる子供たちも、綺麗な顔が綺麗に見えず、あんたみたいな不器量な顔が器量よしに見えるようにね。」

話をしているうちに幽霊はお信に祟りの消し方を教える。そして「祟りがとれて、木屋の人たちが元どおりになったら自分がどうなるかそれを考えたことがあるかい?」と最後に言う。

お信は迷った。自分の器量が悪いと悲観し気の病にかかっている繁太郎の妹のおすずとおりんの姿を見るとすぐにでも祟りを消してあげたい気がする。しかし、そのことによって繁太郎から離縁を言い渡され家を出されるだろう、その間で迷いに迷っていった。

しばらくして子供が生まれた。その子は器量よしだったが、木屋の人はまるっきり逆の事を言う。その子が成長し自分を卑下して悲しみ、苦しみ目の前の幸せを取り逃がしてしまうことになるだろう。そう思うと自分はどうなってもいいと決断し祟りを消すため、庭に石灯籠を立て、磨いた鏡を埋めた。

物語の結末は次のように書かれている。
「それでどうなったかって?なあにどうにもなりはしなかった。お信は離縁などされなかったし、今でも繁太朗と仲睦まじく暮らしている。おすずとおりんはすっかり明るさを取り戻した。お信は、木屋の人たちに愛され、大事されているのだ。」

これが宮部みゆきの結論だ。この部分がこの物語を気にいっている理由だ。器量などは相対的なものなのだ。そのことは木屋の家族の者が身を持って体験したことなのである。顔かたちが違っても中身は全く変わらない。

昨日まで醜く見えた顔が、今日は美しく見えるといった事に木屋の家族は直面する。器量がいいとか悪いとかは高々見掛けだけのものではないか、そんな事に惑わされ悩んでいたのかと思い知るのである。そこで顔かたちに呪縛されていた事に気が付くのである。

お信が今まで木屋でやってきた行動、繁太郎への愛情の深さ、義理の父母や妹たちへのやさしさ、また店の手伝い、家事、育児など骨身を惜しまず働いてきたその事を無にすることは誰にも出来はしない。もはやお信は木屋の家族にとってなくてはならない存在であった。むしろ顔が変わった事によって、家族全員がその事に改めて気がつかされたのではないか。美と醜の相対性を表現した物語だと思う。

確かに美人に出会うと最初は注目する。しかし話をして段々その人の性格が分ってくると、その性格が顔よりも重要になってくる。もはや顔は性格の一部になってしまう。その人とどこで人生を共有できるのか、どこが似ているのか、どういった話が共通の話題足りうるのか、そういった事に関心が移ってくるのだ。もはや器量は二の次の問題に後退する。

確かに顔は心を写す鏡である。ひと目で好きになることがあるのは、顔から性格を読み取るとることが出来ることがあるからなのだ。それは美人とかそうでないかは全く関係ない。顔に表れたその人物の全体像への関心である。

物語の中にもこの事に触れた箇所がある。「器量のいい女は得をする。だがしかし、恋を実らせるものはそれだけではない。何かほかのものがお文にはあっておくめにはなかったから、あるいは七兵衛と合わなかっただけということだってあろう。“お文のためならどんな苦労もできる”と言わしめたものが、果たしてお文の器量だけだったのか。」

もしお信の子供が不器量だったら、お信は祟りを解こうと思っただろうか。自分がそうであるように不器量であってもきれいな気持ちを持ち続けることはできる。そして子供に言うだろう「私に似ちゃってごめんね。でも、顔はどうでも、心はきれいでいようね」と。そう考えてやはり祟りを解こうと思っただろう。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

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偶然に

この本 読んではいないけれど 昨日 本屋でちょいと拾い読み
ちょっと読んでみたい それだけで本を買うとすると
案外 買いたい本はたくさんあって 値段もかなりになるだろう。
・・・と思い 買わないできてしまった。
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