スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

村上龍 『イン・ザ・ミソスープ』

10月15日(金)
41XVX_convert_20101016191314.jpg村上龍の小説は、『限りなく透明に近いブルー』を発売当時読んだだけだった。図書館で『コインロッカー・ベイビーズ』があったのでそれを借りて読んでから、彼の小説を読み始めた。現代社会に生きる人間の心の闇に深く切り込み、この社会の奥深い暗部をさらけ出しながら、その中で人はどのように生きていくのかを問うている。

『イン・ザ・ミソスープ』を読み終わった時の後味は決していいものではなかった。自らを自覚できていない日本人の現状、あまりに深い退廃について語るのには、ここまでの極端な舞台設定が必要だったのだろう。アメリカ人フランクの狂気という形を通してホラー映画以上の残忍な殺戮シーンを緻密に描写しながら、実は日本人の心の闇を切り裂いているのだ。

外国人観光客を相手に、夜の歓楽街、風俗のアテンド(世話人)の仕事をしているケンジ(主人公)に、フランクというアメリカ人の観光客がアテンドの依頼をしてきた。ケンジはフランクと共に歌舞伎町の風俗店を案内して回る。小説には年末の12月29日から大晦日までの3日間の出来事が描写されている。

この小説について村上龍はあとがきで次のように言っている「どれだけ小説を書いても、日本的な共同体の崩壊という現実に追いつけない。ひどい退廃が進行しているが、その中には豊潤なものが何もない。無菌室の中で、生物がゆっくりと死んで行くのを見ているようだ。崩壊は止むことなくいっそうそのスピードを速め、反動化と退行は深まるだろうと思う。」

この小説の登場人物は、日本ではごく普通に存在している人達である。まさに日本人の日常生活の延長線上存在している。しかしフランクというフィルターを通して見つめる事によって、その日常性に潜むある種の異常さというものを浮き彫りにしていく。

我々が自らの異常性を自覚できないのは、その中に浸かりきって自分の現状を対象化する能力を失ってしまっているからだ。それを他の視点から見る事によって、始めて覆われていた闇が口をあけて我々の前に迫ってくる。外国人フランクの極端な異常性を通して日本の現状を考える時、彼の存在との対比において日本という国の現実が見えてくる。

日本人である自分の存在をこの国の中で自覚することは非常に難しい。主人公ケンジは外国人相手のアテンドをしていて、外国人からの質問への回答不能の中でこの国を対象化するようになる。

「外国人から見て異常に思える事がこの国にはたくさんあって、そのほとんどを俺は説明できない。何故こんなたくさんの自動販売機が必要なんだ。どうしてこんなたくさんの種類の缶コーヒーやジュースやスポードリンクが必要なんだ。

日本は世界でも有数の金持ち国なのにどうして過労死するまで働かなきゃいけないんだ。アジアの貧しい国の少女ならわかるけど、この豊かな日本の女子高生がどうして売春するんだ。日本ではどうして単身赴任というシステムに誰も文句を言わないんだ。」(幻冬舎文庫p63)

「あの店にいた連中はロボットか人形のようだった。なんとなく寂しい、自分が何をしたいか分からないから店に来ている。みんな誰かに命令されて、ある種の人間を演じているだけのようだった。おれはあの連中と接しながら、こいつらのからだには血や肉ではなくて、ぬいぐるみのようにおがくずとかビニールの切れ端が詰まっているのではないかと思って、ずっと苛立っていた。」(p211)

心理学者の河合隼雄は解説の中で言っている。
「フランクの目から見ると、日本人は“リスクを負う”のを避けて全員でぬるま湯に浸かったりしているよう見えるのではないか。フランクに殺された連中は同じ場所に居たが、一人一人バラバラだった。それが勝手に寂しさを紛らわせようとしていた。

個々バラバラでありながら、一緒にぬるま湯に浸かっている。フランクはそんな者たちには怒りを向け、切捨てるのだ。ケンジだけがはっきりと自分の意志をフランクに表明したから殺されなかったのではないか。個々バラバラのつながりのない日本人が、ぬるま湯につかって、自分の意志を伝える力をもたないとき、フランクのような強力な存在が侵入してきたら、ひとたまりもなく殺されるだけだという事実を(フランクに)認めることだと思う。その自覚が必要だ。」(p303)

フランクはケンジに幼少時交通事故で脳に損傷を負ってから自分に制御できない異常行動が始まったという自分の生い立ちから殺人者になるまでの過程を事細かに話す。この話を受けてケンジは「人間の悪い本能をBONNNOUと呼んでいる」という話をした。煩悩という日本語の響きがフランクを魅了する。「なんてすごい言葉なんだ、こうやってつぶやくだけで何かがからだから出て行ってしまうような感じがする。」

ケンジは「ボンノウは百八種類あることで、除夜の鐘はその回数ならされされるんだ。その鐘を聞いた人は全てボンノウから自由になれるんだ」とフランクに言う。

大晦日の夜、除夜の鐘を聞くための場所にフランクを案内した。そこでフランクは「ぼくは今ミソスープのど真ん中にいる」と言ってケンジと別れる。しかもあれほど強力に日本的なものを切り裂いた彼が、ミソスープのど真ん中において、鐘を聞いて確かめてみようとしている。悪い本能が、BONNOUが消えるなら自分の中で何が消えるか確かめてみたい。まさに日本的な除夜の鐘によって癒される事を期待している。

小説の中で、現代人の中にひそむ狂気を、アメリカ人フランクという形で肉体化させた。そして最後に人間のもつ怒りや悲しみ、絶望、欲求不満、そして殺意までも、それらをBONNOUという言葉で表現した。ケンジはフランクに言う「煩悩というのは悪い本能とは厳密には違う。悪い本能という言い方だと、それは持って生まれたもので変えようもないもの、罰せられるべきものと考えられてしまう。しかし煩悩は誰もが普通に持っているものという前提に立っている」(P241)。だからこそそこには救済が存在するのだ。

また小説のタイトルを『イン・ザ・ミソスープ』とすることで、罪と罰を基調とした西欧的発想法から決別し、日本人として現状を自覚し、この社会の狂気に対峙し、煩悩の制御を期待したのだろうか。このような終結を通して絶望的日本の状況を切り開く何らかの道筋を示そうとしているのだろうか。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

yosimine

Author:yosimine
がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

最近の記事
カレンダー
10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
ブログ内検索
最近のコメント
最近のトラックバック
カテゴリー
リンク
月別アーカイブ
RSSフィード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。