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生きる意味

11月2日(火)
風邪はかなりよくなったが、咳がまだ少し残る。この残った風邪の症状が中々抜けない。腰の痛みの方は嘘のようになくなった。30日が最悪で、少しでも身体を普通に動かそうとすると、腰に激しい痛みが走りしばらく動けない。スローモーションフィルムのようにゆっくりと身体を動かす外なかった。

一昨日は、大分良くなって激痛に襲われる回数が減少した。そして昨日今日と段々良くなり、まだ腰の周りが重い感じはあるが、普通に身体を動かしても腰の痛みを感じることはなくなった。3日で治るぎっくり腰などあるのだろうか。腰痛の原因はいまだよく分からない。

「いのちの授業」での質問

西武文理大学の「いのちの授業」の講演の後「生きる意味とは何か」といった質問が出された。質問者は「自分には生きる意味というのがどういったものかわからない」と言っていた。

その時は、この問いかけに対しては次のように答えた「この問題は現代思想の主要課題として論議されてきた。生きる意味とは何か、いかに生きるか、皆この回答を求めて生きている。答えを求める過程こそが生きる意味なのだ。生きる意味とは絶えず何ものかを追求する過程である。いかに生きるかを追求する事を止めた時、その人の成長は止ってしまうだろう。

たとえひとつの目標に到達したとしても、その瞬間に次の目標が目の前に聳え立っているものだ。人はひたすら高みに向かって挑戦し続けなければならない。その激しい格闘の中に生きる意味は見出していける。それは絶えず自らを選択していく過程である。」やはりこの答えでは不十分だ。少し考えてみる事にした。

カミユの思想

生きる意味については、実存主義の大きな課題であった。カミユは、人生は生きるに値するか、人生の目的は何か、人は何故生きるのか、不条理の世界で人は果たして生きる意味を見出せるのだろうか、を問いかけている。

「真に重大な哲学上の問題は一つしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。」(『シーシュポスの神話』)

『異邦人』の中のムルソーは考える「人生は生きるに価しない」と。「根本において30歳でも70歳でも死ぬのに大して変わりはない。」人が死ぬ以上は、何時どうしてということは大した問題ではない。

『異邦人』の中で出せなかった回答を『ペスト』の中でカミユは追求する。この世の不条理性は否定しがたい。「人生は生きるに値するのか」の答えはない。しかし、強制されようとする運命にあくもでも抵抗し“否”と言い続けることを通して、その宿命を跳ね返していく事が可能ではないか。

まさに不条理な世界における生き方、運命を受け入れるのではなくそれに抵抗する人間を描き、その世界からの脱却をまさに「反抗的人間」として表明しようとしたのではないか。「私が興味を覚えるのは、愛するもののために生き、愛するもののために死ぬことだ」カミュのこの言葉こそ不条理な世界を突破し生き抜いていく方向を示しているのだろう。

サルトルの思想
41_convert_20101102011222.jpgサルトルは「実存は本質に先立つ」と語る。人間には拠り所となるような本質はない。我々が何故、何のために生きるかという問いは全く無意味である。「人間は自由であるべく呪われている」という彼の言葉は、頼りになる永遠の価値も基準もなく、自由であるがため全て自らが選択し、決断するように死ぬまで運命づけられている、ということだ。我々は自身が生の意味をつくらなければならない。実存するということは自分の存在を自分で創造することだ。

人間の意識存在のあり方は対自存在であり、即自な存在の仕方に対してつねに否定の契機を投げかける原理を意味する。このことから、自由とは絶えず状況を否定しそれを超えようとする人間の根本的本性にほかならない。人間はつねに状況に向って自分を投げ出していくものである。この自分を越えようとする企てを、サルトルは投企(アンガージュマン)と呼ぶ。

人間はみずから造るところのもの以外の何者でもない。人間はどのようにして、みずからを造るか。サルトルは「人間は・・・第一に主体的にみずからを生きる投企なのである」と言う。投企とは「未来に向って自らを投げる」ことである。

人間は社会的政治的状況の中に投げ入れられている。すると自由は状況の中でそれを「超出」するような原理として浮かび上がってくる。サルトルにとって人間の存在の本質は「自由」ということだったが、この自由は結局、人間が政治状況に「参加」すべき事を強く要請するものだった。そして投企とは、政治的社会的状況の中にある人間が、現実の不完全を見てそれを超えようとすることを自由に選択することである。(参考・「現代思想入門」JICC出版「実存主義はヒューマニズムである」人文書院)

実存主義とは
サルトルの考え方の基となる実存主義とは、ニーチェの「神は死んだ」をひとつの出発点としている。西洋文明の合理主義と科学主義が蔓延し、人々は信仰を失い神の絶対的価値が失われたことに端を発する。「もし絶対的価値基準がないなら、人間的な本質などないのではないか、ならば我々は神が望むような形ではなく、我々が自由に望むように選択(創造)できる。」という思想が、サルトルの考え方の基礎にある。

また同時にキエルケゴールの次の言葉もサルトルの哲学の背景となっている。「私は何故かも分からずにこのような存在として生まれ落ち、この先どのように生きるべきかをみずからの責任において選択していかなければならない。このかけがえのない主体的実存こそが哲学における本当の真理であり、この点にかかわらない普遍的真理などを知ってもなんの役にもたたない。」実存主義とはニーチェとキエルケゴールの思想に依拠し発展していった。

生きる意味とは

かってサルトルの本を読んでインパクトの強かった言葉がある。「被投的投企」である。人は、虚無の世界に投げ出されている。そこには拠り所となるものは何もない。生きる意味が最初から与えられているわけでもない。

しかし人間の意識のあり方は無に根ざした対自存在として自由なものであり、その自由な意識は自分の決断によって、客観的な世界を引き受け、それに参加する事が出来る。自らの意思で自分の人生を投げ企てる事が出来る。この世界に投げ出されているとうことこそが投げ返す事を可能にする契機となる。

苛酷な宿命に翻弄され、絶望や不安の中で疎外された存在として行き場見失っている現代人に、それを超克する言葉として「被投的投企」という言葉が大きな意味を持っていると感じられた。

生きる意味とは、自分自身の生き方を主体的に選択する事によってしか見出すことは出来ない。それは自由という重荷を自ら背負う事になる。しかしそうでなければ顔ない群衆の中にずり落ち人格や個性を失った大衆の一人になってしまう。自分から逃げ自分を騙すことになる。しかし人間の自由は黙っていない。真に実存し、本物の人生を送るように強いているのである。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

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未来研究会(名前検討中 人生研究会(名前検討中

生きる 人生 どうなんだろう?
戦後から 日本は 立ち直り 平和を基本として(敗戦国で~) 文明を発展させた。
医学 科学 ほか 神の存在を超えたと思われることも してきているかもしれない。まだ 宇宙の果てまでは 解明されていない。地球は ほとんど解明されているのだろうか?遺伝子~分子 原子~エネルギー~ソーラーパワー~ロボット~ナサ~心理学~教育~恋愛~ 他。
子孫がいる人は 未来のこの日本を 良くしていきたいであろう。
世界で 人に役に立つものが 研究され 作り出されて 実行されている。
その中に いいものも 悪いものも あるのだろうか?
改善されて よりよいものになっていくのだろうか?
未来は すばらしい世界になっていくのだろうか?
人の思想の善悪とその因果が もたらす 大きな結果はどうなるだろうか?
人は 老い 人生を 終わっていく。どう生きるべきなのだろうか?
後戻りできない人生。人生 今 80年時代 人は どう生きていくのだろうか?不老不死~
時間の狭間というのは 存在するのだろうか?タイムマシーンは できるのだろうか?(笑い)



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がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
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