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スプートニクの恋人

11月11日(木)
 村上春樹の『1Q84』は大分前に読み終わったがなかなか感想は書けない。その後彼の小説を何冊か読んでみた。長編小説の中に短編小説で扱われたモチーフが登場する。小説に出てくる幾つかのエピソードがそのまま使われている場合もある。ぞれは彼が言うように短編に収まりきらず「書かれたがっている」小説なのである。

412edd_convert_20101112001302.jpg小説は冒頭次のような言葉で始まる。しかしこの小説は恋愛小説ではない。
「22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた。広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋だった。それは行く手のかたちあるものを残らずなぎ倒し、片端から空に巻き上げ、理不尽に引きちぎり、完膚なきまでに叩きつぶした。・・・恋に落ちた相手はすみれより17歳年上で、結婚していた。更につけ加えるなら、女性だった。」(講談社単行本P5)

小説の語り手「ぼく」は小学校の教師をしている。大学時代から付き合っている小説を書いているすみれという女友達がいる。すみれが17歳年上の女ミュウに恋をする。その後、ミュウの仕事を秘書として手伝うようになる。ミュウと共にワインの買い付けのためにヨーロッパに渡航し、旅の終わりにギリシャの小島に逗留する。そこですみれが突然失踪した。「ぼく」は彼女を探しにギリシャへ向かう。

 この小説は幾つかの視点で考える事が出来るが、大きなテーマは「自分とはなにか」を求める3人の主人公、ぼく、すみれ、ミュウの物語だ。

「自分について語ろうとするとき、ぼくは常に軽い混乱に巻き込まれることになる。“自分とは何か?”しかしぼくが自分自身について語るとき、そこで語られるぼくは必然的に、語り手としてのぼくによって-その価値観や感覚の尺度や観察者としての能力や、様々な現実的利害によって-取捨選択され、規定され、切り取られていることになる。」(P81)

ミュウが告白する14年前の出来事は、心の闇の中に隠れている自己の別の面を見せ付けられる体験となる。閉じ込められた観覧車から自分の部屋を見て、そこにもう1人の自分を発見する。そこで自分の分身が汚されるという二重身現象(ドッペルゲンガー)を体験し、それ以来、他者との肉体的な接触ができなくなってしまった。身体が「性」を拒むようになったのだ。そして彼女の生きがいでもあったピアニストの道を断念する事になる。

ミュウはそこに至る過程を語る。「強くなることじたいは悪いことじゃないわね。もちろん、でも今にして思えば、わたしは自分が強いことに慣れすぎていて、弱い人々について理解しようとしなかった。・・・当時のわたしの人生観は確固として実際的なものではあったけれど、温かい心の広がりを欠いていた。自分に何が欠けているのか、その空白に気がついたときにはもはや手遅れだった。そういう意味では14年前にスイスでわたしの身に起こった出来事は、ある意味でわたし自身がつくり出したことなのかもしれないわね」(p233)

ミュウが14年前に体験したというこの出来事に込められた意味合いとは何だろう。信じがたい自己の内面の曝露ではないのか。確かに不可抗力的な一方的陵辱が行なわれたとしてもそれは自己のもう一方の本質ではなかったのか。自己の存在を知り、その自己から逃れるための破壊行為の一つだったのだろう。

 すみれの失踪の持つ意味は何だろうか。ミュウとの関係に破綻し自分を見失ってしまったということの象徴なのだろうか。「すみれはどこかにドアを見つけ手をのばしてノブをまわし、そのままあっさりと外に出て行ったのだ。こちら側からあちら側に」(P245)

二重世界の存在は何を意味しているのか。現実(こちら)と別の現実(あちら)という世界の設定は、その底にある現代人の孤独を照射しているのだろう。この世界に居場所がない人々は、別の世界に既に存在しているに等しい。

「どうしてみんなこれほどまでに孤独にならなくてはならないのだろう・・・これだけ多くの人々がこの世界に生きていて、それぞれに他者の中になにかを求めあっていて、なのになぜ我々はここまで孤絶しなくてはならないのだ。何のために?この惑星は人々の寂寥を滋養として回転を続けているのか。」(P264)

 村上春樹の小説の主人公の特徴としてクールでミニマムなライフスタイルがある。この小説の主人公「ぼく」は小学校教師としてそつなく仕事をこなし、生徒の親と不倫するなど処世術にも或る程度たけていて、炊事や掃除もきちっと行うという堅実な生活感覚を持っている。

彼はすみれのことが好きなのだが、すみれが一切興味を示さないとう事もあって、具体的にすみれとの男女関係を作ろうとはしない。真夜中にかかってくる電話での長話に付き合うことも含めて、ひたすらすみれの話を聞くことに徹している。すみれやミュウとの関係の中でも、彼らの強い個性に翻弄されることなく自己を失わずいつも客観的に醒めた目で自分を見つめている。彼の立つ位置がすみれやミュウの存在を鮮明に引き立てる役割をしている。

 失踪したすみれから電話がかかってくる。すみれとの再開を前にして彼はすみれとの関係を新たに始めようとする。一方すみれは「ぼく」という存在の中に自分自身を見つけたのだ。電話はもう一人の自分である「ぼく」を取り戻すためのものであった。

人は自己を見出すためには、他者との関係を不可欠とする。他者との対話の中で自己の存在が顕在化してくる。すみれにとって「ぼく」の存在はその意味で、自己確認のための不可欠な存在であった。そしてミュウとの関係の破綻の中で改めてその事を認識するのである。

「君にとても会いたかった」「わたしもあなたにとても会いたかった」「すごくよくわかったの、わたしにはあなたが本当に必要なんだって。あなたはわたし自身であり、わたしはあなた自身なんだって。」
「ここに迎えにきて」「ぼくには準備ができている。ぼくはどこにでも行くことができる。」(P307~8)

孤独に打ちのめされながらしかし孤独によって新たな人生を切り開く準備が出来るのである。孤独を絶望ではなく新たな自己の発見の契機として考える事こそ必要なのだろう。深い孤独の経験が新たな出会いを準備するのだろう。そしてどの様な生であろうが人は生きていかなければならないという事を思い知るのだ。

 「人はその人生のうちで一度は荒野の中に入り、健康的で、幾分は退屈でさえある孤絶を経験するべきだ。自分がまったくの己れ一人の身に依存していることを発見し、しかるのちに自らの真実の、隠されていた力を知るのだ」(P8)

「どれだけ深く致命的に失われていても、どれほど大事なものをこの手から簒奪されていても、あるいは外側の一枚の皮膚だけを残してまったく違った人間に変わり果ててしまっていても、僕らはこのように黙々と生を送っていくことができるのだ」(P303)

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

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がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
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