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谷中七福神めぐり

1月5日(水)
北区のさんぽみちのコースを全て回り終わったので、病院帰りのウォーキングは何処に行こうか迷う所だ。正月だから七福神めぐりがいいだろう。丁度田端から始まる「谷中七福神めぐり」がある。この七福神めぐりは歴史上最も古く、全国各地に沢山ある「七福神巡拝」の原点といわれている。

13時に点滴が終わり、会計を済ませ、薬剤課でいつもと同じ注意事項を聞いた後、レナリドミド受け取り、病院を出たのは13時30分だった。予定外の免疫グロブリン製剤の点滴を2時間かけて行なったが思ったより早く終った。

田端駅→東覚寺・福禄寿→青雲寺・恵比須→修性院・布袋尊→長安寺・寿老人→天王寺・毘沙門天→護国院・大黒天→不忍池弁天堂・弁財天→湯島駅


最初の目的地東覚寺は病院への通り道にある。北区のさんぽみちの田端エリアにも含まれていて行ったことのある場所だ。普段行ったので福禄寿は見ていないし、この寺が七福神めぐりに入っているということも知らなかった。違った見方をすると同じ場所でも異なったイメージを与えてくれるものだ。

いつもは境内に人のいたためしがない。谷中七福神めぐりというかなり有名なルートなのだからだろうか、かなりの人で賑わっていた。1200円の和紙の朱印帳を皆買い求めている。また赤札を買って金剛力士像に貼っている人もいた。

東覚寺(白龍山寿命院 真言宗豊山派)・福禄寿
延徳3年(1491)源雅和尚が神田筋違に創建、根岸への移転を経て、慶長年間に当地へ移転したと伝えられいる。江戸時代には、7石の朱印地を拝領した御朱印寺でした。石造金剛力士立像は、全身に赤紙が貼られているので、通称赤紙仁王とも呼ばれている。身体の悪い人が、疾患のある部分に赤い紙を貼って祈願すれば、病気が回復すると信じられ、現在もなお祈願する人が絶えない。

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 明王堂(明導殿)                      東覚寺本堂

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 福禄寿                  はばたき観音              水子・子育地蔵菩薩

西日暮里の道灌山は、上野から飛鳥山へと続く台地上に位置し、西日暮里公園を含む台地上にひろがる寺町あたりは、ひぐらしの里と呼ばれていた。ひぐらしの里は、江戸時代、人々が日の暮れるのも忘れて四季おりおりの景色を楽しんだところから「新堀」に「日暮里」の文字をあてたといわれている。青雲寺と修性院はこのひぐらしの里に位置し、自然に囲まれ眺望に恵まれた景勝地にあった。今周辺は住宅地になり、境内にも自然の景勝は見られなかった。

青雲寺(浄居山 臨済宗妙心寺派)・恵比須
創建の時代は明らかではないが,宝暦年間(1751~64)に下総佐倉藩主堀田正亮が再興したと伝えられる。 寺の周辺は、江戸時代中ごろには自然に恵まれた「ひぐらしの里」と呼ばれ、文人墨客に好まれたといわれる。安藤広重の『江戸百景』にも描かれ、「花見寺」とも呼ばれた。また,境内には滝沢馬琴の筆塚と硯塚がある。

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 青雲寺本堂                               恵比寿神

修性院(運啓山 日蓮宗)・布袋尊
天正元年(1573)豊島郡田中村(現練馬区南田中)に創建、寛文3年(1663)当地に移転したと伝えられる。境内に仮山を造り多数の花樹を植えた景勝地として青雲寺同様「花見寺」とも称されていた。

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 修性院本堂                               布袋尊

西日暮里から日暮里方面に向かう。途中に富士見坂があり、さらに進むと谷中銀座に突き当たる。夕やけだんだんと名付けられた石段を上ると経王寺がある。この寺の本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られている。また慶応4年(1868)の上野戦争のとき敗走した彰義隊士をかくまったため、新政府軍の攻撃をうけることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っている。

何故大黒天のあるこの寺が谷中七福神に入らなかったのか。どういった基準で七つの神社、仏閣を選定したのだろうか。

谷中七福神は今の組み合わせが、江戸時代から限られていたわけではなく、大黒天、恵比寿は神田明神、清水観音堂、大黒天は経王寺、毘沙門天は谷中本通寺、弁財天は北町の養泉寺とする事もあったと記されている。いつの間にか一つのルートへと収れんしていったのだろう。

経王寺の隣に本行寺がある。ここは景勝の地であったことから通称「月見寺」とも呼ばれていた。本行寺の前の坂を下ると日暮里駅に着く。線路に沿って右に曲がる細い道を行くと天王寺の塀に突き当たる。塀沿いに進んで行くと山門がある。境内の正面に本堂が左右に広がっている。またブロンズの大仏像がある。毘沙門天は毘沙門堂に安置されている。

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 経王寺大黒堂                        本行寺本堂

天王寺(護国山 天台宗)・毘沙門天
もと長燿山感応寺尊重院という日蓮宗寺院として、鎌倉時代に創建され、9ヵ院を擁する本寺だったが、不受不施派に対する禁令により天台宗に改宗した。享保年間には富くじ興行が許可されたことで賑い、湯島天満宮、目黒不動龍泉寺とともに江戸の三富と称されていた。

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 天王寺本堂                         毘沙門堂 
  
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 毘沙門天                大仏の彫像                五重塔の跡

天王寺から谷中の墓地の中を長安寺に向う。途中に谷中五重塔跡がある。この五重塔は、1908年(明治41年)に天王寺より当時の東京市に寄贈されたもので、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルにもなった。東京の名所のひとつで、谷中霊園のシンボルになっていた。1957年(昭和32年)心中による放火で焼失した。

この塔の前に長谷川一夫の墓がある。そこを右に曲がって進むと突き当たりに長安寺がある。本堂の前に板碑があり、その周辺を十六羅漢が囲んでいる。この板碑は死者の菩提を弔うため、あるいは生前に自らの死後に供えて供養を行う(逆修という)ために建立した、塔婆の一種である。

また狩野芳崖の墓もある。芳崖は明治初期の日本画家で、19歳の時江戸に出て、狩野勝川院雅信に師事。橋本雅邦とともに勝川院門下の龍虎とうたわれた。その代表作「悲母観音図」「不動明王図」(ともに東京藝術大学蔵)は、いずれも重要文化財である。

長安寺(大道山 臨済宗妙心寺派)・寿老人
長安軒として安藤右京亮屋敷内に創建した。正徳2年(1712)大道山長安寺の寺号が認められ当地移転している。

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 長安寺本堂                               寿老人

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 狩野芳崖の墓                        十六羅漢 

谷中の墓地を抜け、言問通りをわたり上野公園に向う。真っ直ぐ進んで行くと護国院の古めかしい本堂に行き当たる。本堂の中はだだっ広く、中央に大黒天の像が祀られている。

清水坂を下り、動物園通りを10分ばかり行くと不忍池が見えてくる。弁天堂は池の中の島にある。弁天堂の中央には弁財天の像が祀られている。多くの人は入口の所で参拝している。しかし入口の所からでは弁財天があまりにも遠くにあってよく分らない。靴を脱いで中に入ることも出来るので、弁財天の近くに行こうと思った。

1人の老婆がお経を唱えている。最初はその後ろで写真を撮ったがまだ離れていて弁財天の様子が良く分らない。さらに近付こうとすると、その老婆が突然お経を止め、ここは檀家の人以外は入れないことになっている。また写真は撮ってはいけない、と叫んだ。その気迫に押されてすごすごとその場を離れた。弁天堂の裏に回り不忍池を半周して、湯島駅に出て帰路についた。

護国院(天台宗寛永寺の子院)・大黒天
寛永元年(1624)釈迦堂の別当寺として、現在の東京国立博物館の右手奥に開創した。宝永6年(1709)当地へ移転した。三代将軍家光から贈られたと伝えられる大黒天画像は谷中七福神の一つとなっている。

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 護国院本堂                               大黒天

不忍池弁天堂(天台宗大本山寛永寺境外祀堂)・弁財天
寛永2年(1625)天海僧正は、比叡山延暦寺にならい東叡山寛永寺を創建した。天海僧正は、松山藩主水谷伊勢守勝隆とはかり、不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島(ちくぶしま)に因んで、池中に中之島(弁天島)を築き、のち竹生島の宝厳寺の弁財天を勧請し弁天堂を建立した。本尊は八臂の辯才天で、特に芸能や福徳にご利益があるとされている。

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 弁天堂                                  弁財天

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 裏から見た弁天堂                     不忍池から弁天堂を臨む

(参考資料:台東区の史跡・名所案内、荒川ゆうネット史跡・名所、はてなキーワード、猫のあしあと)

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